ワールドカップといえばサッカーのワールドカップとなったのはなぜでしょうか!?

サッカー.com

W杯の歴史

ヨーロッパでは世界的なスポーツとしての可能性も認識され、1904年にフランスでFIFAが創設され、W杯への第一歩を踏み出した。しかし、第一次世界大戦のためFIFAの壮大な計画は足踏みしてしまう。
大戦終了後、再びW杯開催を目指す。フランスの出版業者のジュール・リメが力を尽くす。1921年リメはFIFAの会長に就任。彼は33年後の81歳で会長を退くまで、世界を沸かせるサッカートーナメントの夢と共に生きた。リメが夢の実現のきっかけをつかんだのが1924年のパリオリンピックだった。ウルグアイの大統領が観戦したサッカーの決勝戦。ウルグアイはスイスに2−1で勝利し優勝。第1回W杯開催国にはウルグアイが最適だとし、早速リメは大統領に話し、大統領も承諾した。FIFAがこの夢を実現するのに創設から26年の歳月が経っていた。

1930年 ウルグアイ大会

 ヨーロッパでは4カ国が参加を表明。ウルグアイへの船旅は約2週間もかかった。1930年7月18日第一回W杯ウルグアイ大会は、モンテビデオのスタジアムで開幕された。特別参加のヨーロッパ4カ国は、開会式のパレードでは目立ったが大会が始まると南米諸国が主導権を握る。アルゼンチン対ウルグアイの決勝戦ははじめから波乱含みで、両チームとも有利な自分たちのボールを使いたがった。結局トスで権利を得たのはアルゼンチンのボールを使うことになった。しかしアルゼンチンのツキもここまでだった。結果は片手のカストロの活躍で主催国のウルグアイが初優勝を飾った。

1934年 イタリア大会

 第2回大会には16カ国が参加。ムッソリーニは絶好の機会だと分かり、この大会をファシスト党の宣伝に利用した。第1回大会に続き、主催国のイタリアが決勝戦に進んだ。相手国はチェコ。チェコ人の願いもむなしくイタリアが2−1で勝利をものにした。ムッソリーニの思惑はさておき、W杯が全世界に名を売ったのも事実だった。

1938年 フランス大会

 FIFAは施設費に200万フランを投資。大観衆の前でイタリアがハンガリーを4−2で下し2連覇。
しかし、ヨーロッパに再び戦火が、FTFAの前に再び戦争という壁が・・・。

1950年 ブラジル大会

 戦火を逃れたブラジルで第4回のW杯が開催される。メイン会場は20万人を収容するマラカナンスタジアム。イングランドはこれが初出場。前評判は高かったがアメリカに1−0で敗れる大波乱が起きた。決勝はブラジルとウルグアイに。20万人の観衆で満員になったが、2−1でウルグアイに敗れ、観衆は失望に包まれた。

1954年 スイス大会

 この大会では記念コインが発売され、初めてW杯が商売にされた。このときは初めてTV中継されたが、あまり見る人はいなかった。決勝で西ドイツが二年間無敵だったハンガリーを破り優勝した。

1958年 スウェーデン大会

 この大会で彗星のごとく現れたのがペレだった。ブラジルが決勝でスウェーデン5−2で破り、ペレは17歳にして国民的英雄になった。

1962年 チリ大会

 大会の二年前にチリで大地震が起こり、W杯開催が危ぶまれたがチリの人々は見事にこの屈強を克服した。ブラジルはペレの負傷欠場にもかかわらず、決勝でチェコを3−0で破り2連覇した。

1966年 イギリス大会

 TVで約5億人が観戦。W杯はついにオリンピックと並ぶビックイベントになった。しかしこの大会はラフプレーが続出した。予選リーグでペレは徹底的にマークされ、強烈なラフプレーの的になった。「サッカーは暴動で汚された。このままでは再起不能になってしまう」ペレは試合後にこう語ったという。決勝のイングランド対西ドイツはまさに歴史に残る試合になった。延長戦の末イングランドが4−2で勝利した。トロフィーの受賞は、イギリスの女王陛下が行った。
 このころイギリス人審判のラウスが、対角線審判法を考案した。世界的な審判といえば、イングランドのクライブ・トーマスとブラジルのクエリオだった。彼らは試合の流れを優先しつつ、紳士な態度で暴動を未然に防いだ。

1970年 メキシコ大会

 空気の薄いメキシコでは、ヨーロッパ勢は不利だったが、既に経験をつんでいたブラジルにとって優勝は確実だった。敵は前回優勝のイングランドと西ドイツだった。西ドイツのベッケンバウアーの登場がこの大会の呼び物だった。ブラジル対イタリアの決勝ではW杯最後の登場となったペレが、先制点を挙げるなどイタリアを圧倒し、3度目の優勝を飾った。ジュール・リメ杯はブラジルの永久保持となった。
ペレはその後、アメリカのニューヨークコスモスと3年間で450万ドルの契約を結んでプレーし、1977年に引退した。引退セレモニーにはモハメド・アリ、カーター大統領らが出席して7万人の観衆の中で行われた。そのときの彼の言葉はあまりにも有名だ。「love love and love」。彼のサッカーに対する思いがこもっていた。

1974年 西ドイツ

 この大会では新しいスタイルのサッカーのスタートになった。各チームともブラジルの戦法を真似した。攻撃のときはGK以外全員で参加するようになった。クライフ率いるオランダ、ベッケンバウアー率いる西ドイツが決勝に勝ちあがった。試合は全員守備、全員攻撃のまさにトータルフットボールにふさわしい内容だった。ゲルト・ミューラーが決勝点を挙げ2−1で西ドイツが勝利した。
西ドイツ大会終了後、ブラジルの億万長者であるヤオ・アベランジェ氏がFIFAの会長になった。彼は当時FIFAに加盟してたほとんどの国でサッカーを一番人気にさせた功労者だ。若い選手の育成のために1977年にワールドユースが始まった。79年の東京大会では、アルゼンチンのマラドーナが脚光を浴び、将来を約束されたスーパースターが誕生した。

1978年 アルゼンチン大会

 スタジアムに巨額の費用が投資され、その一部を肩代わりする商法が考え出された。アディダスも参加し、タンゴというW杯専用のボールを紹介した。この大会では視聴者が10億人を上回った。決勝はアルゼンチンとオランダが対戦し、アルゼンチンがアルディレス(現ヴェルディ監督)とケンペスの活躍で6番目の優勝国となった。

1982年 スペイン大会

 この大会では100万ドルプレイヤーとなっていたマラドーナは最初からマークされた。そしてアルゼンチンは再三ファールを受けたマラドーナは激高し、退場処分を受け敗れ去った。決勝はイタリアと西ドイツ。ロッシの活躍でイタリアが三度目の優勝。

1986年 メキシコ

 大会の9ヶ月前大地震が起き1000人の死者が出たが、大会は難なく開催された。アルゼンチンのマラドーナ、フランスのプラティに、イングランドのリネカーなどスターが沢山いた。イングランド対アルゼンチンの準々決勝では、今でも語りぐさになっている、神の手ゴールと5人抜きゴールが飛び出た。決勝はアルゼンチンと西ドイツ。結果は勢いのあったアルゼンチンが2回目の優勝を飾った。

1990年 イタリア大会

 開幕戦でカメルーンが前回優勝のアルゼンチンを1−0で破ったのだ。この大会では、後に日本で活躍する選手が沢山いた。ユーゴスラビアのストイコビッチ、オシム監督、イタリアのスキラッチ、西ドイツのリトバルスキー、ブッフバルト、イングランドのリネカーなど。西ドイツはベッケンバウアーが監督としてW杯にのぞんだが、彼らは素晴らしいパスワークで見事に決勝に勝ち進んだ。開催国のイタリアはバレージを中心に奮闘したが敗れた。開幕戦で敗れたアルゼンチンが正GKの負傷で出場したサブGKのゴイコイチアの活躍で決勝まで進んだが、西ドイツの前に完敗した。

1994年 アメリカ大会

 史上最大となった今大会がマラドーナの最後の大会として注目されたが、予選リーグ途中に薬物の使用であっけなくW杯と別れを告げた。代わってブラジルのロマーリオが大活躍。イタリアのロベルト・バッチョもけがを負いながら奮闘した。決勝ではPK戦の末ブラジルが優勝し4度目の頂点に立った。

1998年 フランス大会

 前回大会の予選で日本と同じような悲劇を味わっていたフランス。世界最高の選手になっていたジダンを中心に開催国らしくチームを作り上げていた。前回優勝のブラジルもロナウドを中心に順当に勝ち上がった。日本も初出場した大会であった。決勝は予想通り、フランス対ブラジル。ジダンの活躍で3−0で勝利して初の優勝を飾った。パリのシャンゼリデ通りは人で溢れかえった。

2002年 日本・韓国大会

 前回優勝のフランスが今大会も優勝候補の筆頭だったが、開幕戦で初出場のセネガルに敗れると予選で一勝も出来ないままW杯を後にした。開催国の日本と韓国は両国とも決勝トーナメントに進み、韓国はイタリアを破りベスト4に進出した。アジアの力が対等してきたことを世界に証明した。決勝はブラジルとドイツ。ブラジルが3−0でドイツを破り、5度目の頂点に立った。

2006年 ドイツ大会

inserted by FC2 system